沿革

Simpsonの歴史

ドラッグシュートから始まった革新

SIMPSONの物語は、スピードの裏に潜む“危険”と、それに立ち向かう若きレーサーの挑戦から始まりました。

物語の主人公であり、SIMPSON創業者のビル・シンプソンがレースの世界に飛び込んだのは、わずか16歳のとき。彼はドラッグレースに夢中になり、アメリカの広大な地でスピードを追い求めていました。しかし、その情熱が高じたある日、彼のマシンは減速が間に合わず、コース脇の壁に激突。結果、両腕を骨折するという大事故に見舞われるのです。

普通であれば、その経験がトラウマになりレースから身を引いてもおかしくない出来事。しかし、彼は違いました。事故をきっかけに、「どうすればレース中にもっと安全に減速できるのか」という発想が芽生えたのです。この“安全への探究心”こそが、後のSIMPSONブランドの根幹となっていきます。

ビル・シンプソンは翌年、まったく新しい減速装置の開発に乗り出します。それが、後に伝説となる「ドラッグシュート」——ドラッグマシンの減速時に使うパラシュートでした。ヒントをくれたのは、当時軍の放出品を扱っていたビル・シンプソンの叔父。彼が「軍用パラシュートを使ってみたらどうか」と提案したのです。

まだ何の技術も設備もなかったビルは、工業用ミシンを借りて自らドラッグシュートの試作を開始。そして、友人とともに市街地での実験に挑戦します。時速160キロで走る車から、自らの手でパラシュートを投げ放つという無謀なテスト。その結果、パラシュートは見事に展開しましたが、あまりに強力だったため近くの木を引き倒してしまい、彼らはその場で逮捕されるというオチまでついていました。

しかし、この実験によってドラッグシュートはその効果を証明。安全に対する執念から生まれたこの発明こそが、SIMPSONの最初のプロダクトであり、ブランドの歴史における第一歩となったのです。

ここから始まるSIMPSONの物語は、単なるレース用品の開発ではなく、「命を守る技術」を追い続けたビル・シンプソンという一人の男の信念と挑戦の歴史でもあります。

“Racing Safely, Living Dangerously”

ヘルメット開発への道

その後も、ビル・シンプソンの情熱は止まることなく、ドライバーやメカニックといったモータースポーツに関わるすべての人々の命を守るべく、新たな製品開発へと向かっていきました。彼の「守りたい」という強い思いは、次々と形になっていきます。代表的なものが、防火性に優れたレーシングスーツや耐久性の高い安全靴の開発です。

特に防火レーシングスーツは、当時としては革新的な安全装備であり、発表と同時に大きな話題を呼びました。それまでのレーシングスーツは火災への耐性が不十分で、クラッシュ後の炎上事故が選手の命を奪う例も少なくなかったのです。そうした背景の中で登場したシンプソンの防火スーツは、まさに“命を守る道具”として、レーシング界に衝撃を与えました。

多くのプロフェッショナルチームがいち早く導入を決め、信頼と期待が集まる中、ビル・シンプソンはある大胆な行動に出ます。新製品のお披露目の場で、自らその防火スーツに身を包み、自分自身に火を放つという前代未聞のパフォーマンスを行ったのです。燃え盛る炎の中に立つビルの姿は、そのスーツの高い耐火性能を見せつけると同時に、「安全は命をかけて証明するものだ」という彼の信念を世界に示しました。この伝説的なパフォーマンスは、今でも語り継がれる逸話の一つとなっています。

SIMPSON RX-1 HELMET

そして、1973年——ビルの「命を守る」思想は、ついにヘルメットという分野へと広がっていきます。

当初は、ある企業と共同でヘルメットの開発を進める予定でした。しかし、その企業が買収されてしまい、プロジェクトは白紙に戻ってしまいます。通常であればここで断念するのが当然かもしれませんが、ビル・シンプソンは違いました。彼はひとりで開発を続け、自らレースに出場しながらフィードバックを重ね、ついに翌1974年、プロトタイプ第1号となるヘルメットを完成させます。

この初期モデルは、従来の四輪レース用ヘルメットと比べて圧倒的に軽量でありながら、安全性にも優れていました。その完成度の高さに、業界内は大きな驚きをもって迎えたと言われています。

そして1979年、ついに記念碑的モデル「SIMPSON RX-1」が登場。発表当時のインディー500では、予選を通過した33名のドライバーのうち、実に23名がシンプソン製のヘルメットを選択するという快挙を達成しました。これは単なる一製品の成功ではなく、シンプソンが“信頼の象徴”としてレーシング界に君臨することとなった瞬間でもあります。

その後もシンプソンのヘルメットは改良と進化を重ね、1991年には“カー用品メーカー・オブ・ザ・イヤー”にも選出。レースという極限の環境で鍛えられた品質と、妥協なき安全への追求は、世界中のドライバーからの絶大な信頼を集め、モータースポーツの歴史にその名を刻みました。

〜1993年から共に〜

NORIXとSIMPSONの出会い

SIMPSONアジア展開の原点

SIMPSONと日本を繋ぐ架け橋となったのが、私たちNORIXの代表・中山です。きっかけは、ある企業の社長から「SIMPSONを日本で扱えないか?」という相談。さっそく本社に連絡をすると、「創業者のビル・シンプソンを紹介するからカリフォルニアに来ないか」と言われたものの、当時はビルがどんな人物かも知らず、「そのうちに…」と電話を切ったといいます。実際に取引が始まると、扱い量が徐々に増加。契約社会であるアメリカにおいて、しっかりとした契約が必要だと感じた中山は、ついにビル・シンプソンと対面します。そこで、中山は日本だけでなくアジア全域での独占販売権を求め、ビルに直談判。「独占販売権なんて渡したことがない。我々にどんなメリットがある?」と問われた中山は、「無給で、しかも前金で商品代を払う世界最高のセールスマンを雇ったようなものです。一定の条件を満たさなければ、販売権は即返上します」と返答。この返しにビルは大笑いし、「世界最高のセールスマンか、気に入った。やってみろ!」と一言。こうして、SIMPSONヘルメットの日本およびアジアでの展開が本格的に始まったのです。

SIMPSON SB5 HELMET

SIMPSON SB7 HELMET

SIMPSONのヘルメットは、アメリカの高い安全基準SNELLを満たしていたものの、日本国内で必要なSG規格には適合していませんでした。販売店や問屋からは「SG規格に通っていないヘルメットは扱えない」という声が多く寄せられ、販売が困難に。そこで中山は、SB5のアイボード部分を“たれ目”にデザイン変更することで対応。SB7として再構成し、無事に日本国内での販売に成功しました。

また、シンプソンの人気モデルM30が復刻したきっかけは、中山が自身のブログで「M30の復刻を考えています」とつぶやいたことでした。この言葉をきっかけに、ユーザーからの熱い声が集まり、M30復刻が実現。今日でも多くのライダーに愛され続けています。

〜旧Norix公式ブログのご紹介〜

シンプソン製品や開発秘話、弊社代表・中山の想いを綴ったエピソードの数々は、旧Norix公式ブログにて随時公開されています。製品の裏話やレース文化への愛情、復刻モデルへの反響など、リアルで熱い情報が詰まっています。

旧Norix公式ブログはこちら

SIMPSON M30 HELMET

私たちNORIXは、ビル・シンプソンの「命を守る」という強い信念と、ものづくりへの情熱を正統に受け継ぎ、そのスピリットを注いだヘルメットを今もつくり続けています。私たちは彼と共に築いてきた本来の理念を受け継ぐ“本流”として、これからも彼の意志を守り続けていきます。レースで培われた安全性を、ストリートへ──。SIMPSONのヘルメットは、今日も変わらず、すべてのライダーの命を守るために存在しています。その歴史と魂を胸に、私たちはこれからも進み続けます。

年表

Norix Projects Corp. 創立
日本向けにSB5を輸入開始
SIMPSONアジア総代理契約
SB9を共同開発
RX10・DiamondBackを発売
SB13を発売
M30復刻版を発売
M50を発売
RX12を発売
M10を発売
BANDITを発売
RX1を再販
Bandit Proを発売
SB15を発売